2016/06/24 第10回 長谷川太郎氏(元Jリーガー)『セカンドキャリアの本質「ワクワク+貢献」』(前編)

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理事長の小村をホスト役とした企画「対談すごトーク」。第10回目となるゲストは、元Jリーガーの長谷川太郎さんです。

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■一本の重み

小村:私は昨年すごラボを起ち上げ、同じ時期に長谷川さんも一般社団法人TREを起ち上げられたこともあり、起業一年目同士、スポーツ関係者が集まる会合で何回も偶然お会いする機会がありました。お話をお聞きするにつれ、「長谷川太郎」という人物の魅力を感じてしまいました。選手時代の魅力、セカンドキャリアに挑まれている魅力を伝えたく、対談すごトークが叶いました。よろしくお願いします。まずは長谷川さんがサッカーボールと友達になった時期から教えていただけますか。

長谷川:サッカーを始めたのは小学校1年生です。「キャプテン翼」に憧れて、サッカーがやりたいとワクワクして始めたのがきっかけです。友達もやっていたこともあり、地元東京都足立区のクラブチーム(FC千住イーグルス)に入りました。

小村:「キャプテン翼」をきっかけにサッカーを始めたサッカー選手は多いですよね。そこからJリーグ球団との経緯はどうだったのでしょうか。

長谷川:今のバーモントカップというフットサルの大会(全日本少年フットサル大会)があるのですが、その前身の全国少年ミニサッカー大会に出場しチームが全国2位になりました。けっこう自信もあったので、小学校6年生の時にヴェルディの読売SCユースを受けたのですが落ち、レベルの高さを思い知らされました(笑) 幸いにも中学生になり柏レイソルジュニアユースに入団できました。この時の同期にナオト・インティライミがいて一緒にプレーしていたんですよ。

小村:歌手のナオト・インティライミさんとサッカーをやっていたんですか(驚) その後も、柏レイソルで活躍し、1998年柏レイソルユースからトップに昇格します。チームのピラミッドに添ってのトップ昇格は順調だったのですか。

長谷川:一本のゴールでプロになれたようなものです。実は腰椎分離症で半年間サッカーができなかった時期がありました。何とか治ってくれた後は、シュート練習を毎日毎日打ちました。そしてトップ契約を掴み取ることができた一本のゴールが出たのです。

小村:その経緯を具体的に教えていただけますか。

長谷川:当時アントラーズの監督をしていたジーコ監督がアントラーズとレイソルの二軍の試合を視察しに来ていました。私も出場し、地道なシュート練習を続けてきた結果がこの試合で発揮できゴールを奪うことができたのです。それをたまたま見ていたジーコ監督が敵チームの私を評価していただき、何とアントラーズからトップ契約のオファーをいただいたのです。しかし、長年育ててくれた柏レイソル側が「ウチで契約をする選手ですから」と一蹴、これがきっかけでトップと契約が結べたのです。

小村:敵チームのジーコ監督の声があり、今まで育ててきた自軍の選手を敵チームにとられたくないという動機が入団に繋がったということなのですね。それが一本のゴールであったと。

長谷川:本当にその一本でレイソルのトップ昇格することになりました。レイソルには4年間在籍して、2002年アルビレックス新潟にレンタル移籍をします。レイソル時代はそこそこ試合に出場していたのですが、ある一本を外したことで育ててもらったレイソルを離れなければならなくなるのです。

小村:レイソルに入団したきっかけも一本であれば、離れることになる理由も一本であったということですか。

長谷川:当時Vゴール(ゴールデンゴールともいう。サッカーの延長戦で一方のチームが得点した場合、試合を打ち切りその得点を入れたチームが勝者となるサドンデス方式)というのがあったのですが、味方がヘディングを競り合って後ろに流れたボールを私が拾い、キーパーと一対一になったのです。入れればチームの勝利です。しかし、キーパーの足に当ててしまい外してしまいました。それ以降、私は試合に出場させてもらえなくなりました。あの外してしまった時の気持ちは今でも覚えています。一点の重みをとても感じた経験でした。

小村:とてもシビアな話しですね。それで新潟にレンタル移籍となったのですね。

長谷川:新潟でも結果を出せず、ダブルでアウト(レイソル及びアルビレックスの両チームから戦力外通告)になりました。所属チームがなくなったので国立競技場でトライアウトを受けました。

小村:まだ20代前半と年齢も若いのにそんなに早くアウトになってしまったのですか。

長谷川:職を失いました。この時はじめてサッカーができなくなるんじゃないかという危機感にかられました。
まだサッカーがやりたい。そんな気持ちで必死にトライアウトを受けました。運も味方をしすぐに点が取れてアピールができました。その気持ちが伝わったのか、ヴァンフォーレ甲府と水戸ホーリーホックから話があったのです。

小村:捨てる神あれば拾う神あるという状況ですね。当時はこの2チームがJ2の最下位を争っていたチームでしたが、ヴァンフォーレ甲府を選ばれました。このチームで才能を開花されるのですね。

長谷川:それが順風満帆だったわけではありません。2003年は一年契約で甲府に入ることができましたが、いつも3番手で試合に出ているような状況でした。J2の最下位のチームで紅白戦も出られない境遇でした。ある意味、干されている状態です。結果が出なかったため、翌年は半年契約になってしまいました。

小村:通常プロ選手は1年契約という固定観念があったのですが、半年しか契約をしてもらえなかったのですか。

長谷川:そうです。そして、6月末で契約満了というギリギリの時に、主力選手が立て続けに肉離れで戦列を離れたこともあり、たまたまベンチに入ることができました。そして後半から試合に出場する機会を得、後半41分にジャンピングボレーをしたのが決勝ゴールとなったのです。この一本のお蔭で契約が延長となりました。本当に終わりだなと思った時に必ず奇跡が起こるのです。人生のターニングポイントとなる1本があるのです。

小村:甲府に入団してからの1年半は辛い状況でしたが、1つのきっかけをモノにしてブレイクするわけです。何か奇跡を呼び起こすきっかけはあったのでしょうか。

長谷川:柏レイソルで一緒にプレーをしていた玉田圭司という選手がいます。知っていますか?

小村:ドイツW杯で日本代表としてブラジルと戦った時に点を決めた選手ですね。

長谷川:レイソル時代は玉田は控えで私が出場していたのです。もちろん彼はサッカーはうまかったのですが、私が試合に出ていました。しかし、この時期は、玉田は日本代表として活躍し、私はJ2の試合どころか練習試合にすら出られない境遇でした。この差は何であろうと考え、紙に箇条書きにしていきました。シュートは自分が良い、ここはアイツが優れていると書いていきました。その中で決定的に私が劣っていることがわかりました。玉田の記事を読んだ時に「自分は前を向いたら自分は仕掛ける」と書いてありました。監督が何と言おうが自分を持って仕掛ける。そういう「自分」を持っていたんですね。私はどうかと言うと、試合に出るためにプレーや練習をしてきたのです。玉田は試合に出られなくても自分を貫いていた。そこが違うのかなと思ったのです。

小村:「自分」を持っていなかったことに気づいたのですね。

長谷川:貫き過ぎてもいけないと思うのですが、自分は顔色をうかがっていなかったかと。この監督ならこう合わせようとして、この監督ならこうだと、監督が変わる度にずっとそうしてきていました。これじゃダメだなと。監督が変わる度に全部ゼロになっていると気づいたのです。そこから改めて、自分のプレーは何が特徴なのか客観的に見なければいけないと思ったのです。それ以降、活躍できるようになっていきました。

小村:誰かのアドバイスではなく、これはご自身で気付いたのですか。

長谷川:そうですね。何かふとした時に何でだろうと考えました。何か理由があるんだろうなと思って。ちょっと前まで私が試合に出ていたのに、方や日本代表、方やJ2で試合にも出られない。ただの実力差だけでない何かがあるなと思って考えてみたんですね。

小村:このような自分自身に問いかけ常に考えようというスタイルはそれ以降、引退するまで続けたのですか。

長谷川:はい。何が正解か不正解かはわからない中で決断をしなければならないことは選手の時だけでなく引退した今でも直面します。先ほどの玉田ではないですが、自分を信じるしかないじゃないですか。結局、何かをやったことで試合に出るとか、頑張ってやてきた結果試合に出るとか試合に出るためにやるのはいいのですが、試合に出ることに一喜一憂していた自分がいたことを発見したのです。結果だけを見てしまっていた自分がいた。それは裏を返せば段階を踏んでやれていなかったと反省につながったのです。

小村:これが2004年6月頃で、その気づきから自分が変わっていったわけですね。

長谷川:その気づき以降からは、何かある度に自分は何が必要なんだろうと少しずつ考えていきながらやっていました。もちろん、論理的に考えることまではできませんが、感覚的に自分がどういう風に考えていけば良いのか。ワクワクする方の選択を取った方が良いケースになるとか、そういう自分なりのデータを蓄積しながら成長させていきました。

■自分をはっきり持ち周囲に気持ちを発信する

小村:2004年6月24日のコンサドーレ札幌戦に契約満了最後のチャンスに決勝ゴールを挙げ、一転契約延長となり、この年は17試合3得点を挙げ、翌年の活躍に繋がることになりました。2005年は日本人ではトップとなる17得点を挙げ、J1昇格の立役者となったわけですが、絶好調だったときの話をお聞かせください。

長谷川:あれはバレー(本名はジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー。ブラジル選手)やチームメイトのお蔭です。ただ、この時のことを今改めて思うと、「自分がはっきりしていたんだ」と思います。自分が点が取りたいからだとはっきり思っているから、点を取るためにこぼれ球にも反応します。「オレ点を取りたいから」と周りへ発信して前へ行く。周囲も守備しなくていいから点を取って来いよという役割がうまくできました。

小村:自分をはっきり持ち周囲に気持ちを発信する姿勢ですね。

長谷川:その前までは周りに自分を発信できていなかったので、こぼれ球への反応が鈍く、キーパーも取ればすぐに投げるので、守備もやらなければいけない。前にボールが行けば前もやる、ポストプレーもやると役割が定まっていませんでした。しかし、「オレはこういうプレーでやりたいんだ」というのをはっきり周囲に伝えることができたからこそ、結果が生まれたのだと思います。

小村:周囲のメンバーを味方として巻き込むことができたのが良かったですね。

長谷川:後は本当に大木武監督に「やれるんだからもっと自信を持ってやれ」と背中を押してもらえたことが心強かったですね。現在はFC東京U-23監督をやっている当時コーチであった安間貴義さんにも、毎週自宅に呼んでいただきストライカーのレクチャーをしていただきました。

小村:周りにいた指導者の方々からも心強いサポートをしていただいていたのですね。

長谷川:そうですね。頑張っていればそれを見てくれて評価をしてくれる人がいます。プロに上げてくれたコーチも、長期契約を推薦してくれたコーチも、熱心に指導をしてくれるコーチもいました。厳しい評価のコーチもいましたが、自分のことを評価してくれるコーチもいるんだと感じました。ヴァンフォーレ甲府の時にはそれをとても強く感じました。

小村:チームメイトや指導者の方々に恵まれ、ベストパフォーマンスで活躍し、育ててくれた柏レイソルとのJ1入れ替え戦に勝利しました。2007年途中で徳島ヴォルティスへのレンタル移籍となります。

長谷川:実は徳島で引退を最初しようと思っていました。もう足が痛くて、第5中足骨を痛めて全然プレーができなかったのです。しかし、徳島から1年間の契約継続の話もあり、同時に横浜FCからもオファーをいただきました。

小村:引退覚悟から一転、三浦知良選手が所属している横浜FCへ移籍。次回は三浦知良選手から学んだことなども含め、その後のキャリア、更なる「長谷川太郎」の魅力に迫っていきたいと思います。

【長谷川太郎プレー集】


<Youtubeより>

<[中編]へ続く>

◆プロフィール◆
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長谷川太郎(はせがわ・たろう)
1998年柏レイソルU-18からトップチームに昇格。翌年、ナビスコカップ優勝に貢献。2002年アルビレックス新潟を経て、2003年ヴァンフォーレ甲府に移籍。J2日本人得点王となりJ1昇格の立役者となる。2007年徳島ヴォルティス、2008年 横浜FC、2009年ニューウェーブ北九州(現・ギラヴァンツ北九州)、2011年浦安JSC/SC浦安(現・ブリオベッカ浦安)でプレーした。2014年インド・Iリーグ1部のモハメダンSCを最後に現役引退。引退後は2015年LB-BRB TOKYOでプレーイングコーチを務める。また一般社団法人TREを発足し代表。【TRE2030 Striker Project】は「2030年 みんなで育てよう! W杯得点王」をミッションに、ゴールを通じて、決断力・覚悟・責任感を養い、世界に通用する選手を育成する活動を行っている。
HP : http://www.tre2030.com/

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