2016/05/13 第4回 古賀敏陛氏(国際バスケットボール連盟(FIBA)認定エージェント) 『人脈というのは掛け算。自分のやることは足し算』-バスケットボールにおける代理人業について-(前編)
理事長の小村をホスト役とした企画・「対談すごトーク」。第4回目となるゲストは、国際バスケットボール連盟(FIBA)認定エージェントの古賀敏陛さんです。
■バスケットボール代理人誕生秘話
小村:スポーツ業界を目指す人の間で人気業種のひとつになってきた「エージェント(代理人)」とはどのような仕事であるのか。本日のゲストは国際バスケットボール連盟(FIBA)認定エージェントで数多くのバスケットボール選手の代理人を務めている古賀敏陛さんにお話を聞いていこうと思います。
まずは古賀さんがエージェントという職業に就くまでの話しを具体的にお聞きしていきたいと思います。バスケットボールの出会いからお聞かせください。
古賀:出身は福岡県です。小学生まではサッカーをやっていたのですが、中学生の時にサッカー部がなく、姉の影響でバスケットボール部に入ったのがきっかけです。バスケの高校推薦をいただき進路を考える際に福岡では福岡大附属大濠高校というバスケが強い高校があります。そこで強いチームに進学しても身長が高くないので試合に出られないだろうと思い、強いけれどあと一歩という高校に入ろうと九州産業大学付属九州高校に入学しました。実は中学、高校で生徒会長をやっていたので内申書は良かったのです(笑)
高校時代は3年生の時はキャプテンでしたが試合にはメインではなくベンチ(控)メンバーでした。将来のことを考えたときにバスケットを教えたいという気持ちから教員になりたいと思い始めていて、当時アシスタントコーチをしている人のアドバイスもあり、また付属であったこともあって九州産業大学に進学しました。4年間寮生活であったので根性は相当鍛えられました。また4年生は寮を寮母さんと一緒に運営・経営をするというところで、私は主務という立場でお金の面の運営から料理まで幅広い経験ができました。
小村:大学卒業後は、先生ではなく当時バスケットボールの実業団で強豪のいすゞ自動車に入社します。その動機を教えていただけますか。
古賀:社会科の教員免許も取得し、教職を目指していたのですが教員の空きの枠がなくすぐに学校の先生になれない状況でした。大学の監督から卒業後は何をしたいのかを問われ、「バスケットを勉強したいです」と解答しました。そしたら監督が「勉強したいのならば日本一のチームで勉強するのが良い」と言われたのです。ちょうど私の4歳上の先輩にいすゞ自動車に入った人がいた縁で、大学の監督といすゞ自動車の小浜元孝監督と仲が良かったのです。小浜監督は当時日本代表の監督も務めていたので、日本一のヘッドコーチと言われていました。大学生の私からするとテレビの中の有名人であったため「私の様な人を採ってくれるんでしょうか?」と監督に言ったところ、「そんなのやってみないとわからないじゃないか」と言われました。
いすゞ自動車に入社した4歳上の先輩の結婚式も偶然重なり、大学の監督が「横浜で行われるその結婚式に行くから、お前も履歴書持ってついてこい」と言われたのです。福岡から飛行機に乗って先生についていき、結婚式の会場の一階で監督と待っていたら、小浜監督がやってきて「お前が古賀っていうのか。バスケットを勉強したいらしいな。ウチで勉強したいか?」と聞かれ、何の仕事なのかという質問もできる雰囲気もなく「はい」と答え、小浜監督が「お前のことはよく知らないけど、この監督さんのことは好きだから、お前採ってやるよ」と言われ、私の就職が決まりました。これが大学4年の9月の話しで、翌年4月からいすゞ自動車に入社することになったのです。そういう意味ではラッキーなスタートを切れたかなと思いますね。
小村:小浜元孝監督と言えば日本リーグ優勝6回、オールジャパン優勝5回、日本代表をアジア選手権準優勝に導いた名将です。大学時代の恩師とのご縁で当時のバスケチームの強豪に入られたのですね。当時はプロ化もされていない全て実業団のバスケットボールチームしかない時代でした。具体的な仕事内容はどのようなことだったのでしょうか。
古賀:役職はマネージャーでした。4歳上の選手を引退してマネージャーになった人が一人いただけでした。監督もコーチもトレーナーも社員ではなくプロ契約をしていたため、サラリーマン系のスタッフは私と先輩の2人しかいなかったのです。このような状況だったのでとにかく何でもやりました。練習の手配から、外国人選手をリクルートもしました。今はエージェントとして選手を売り込むことをしていますが、当時は選手を採ることをしていました。また今はビジネスで英語を話しますが、当時は全く英語を話せませんでした。私は英会話の教室などには一回も通ったことがなく独学で修得しました。というのも、しゃべらざるを得ない環境だったので、やるしかなかったのです。
小村:古賀さんが新入社員だった頃は、1991年ですから、当時はインターネットもなく、大変だったのではないでしょうか。
古賀:当時から外国人の代理人はいましたので、そのような方々と話をする際にも、どういう選手が良いのかを判断していくことも、全てゼロからのスタートでした。会社に残っている以前の資料もFAXを送ったコピーだけでした。ワープロと向き合い、辞書を片手に英文をつくっていくというのがキャリアのスタートでした。今振り返ってみると有り難いことで、バスケットボールの用語や会話をいちから始められました。明日までに英文の資料を提出しなければいけないとか、電話で外国人と話をしなければならない。今のように翻訳機能もない便利ではない世の中だったからこそ、英語の上達が早かったのかと思います。
小村:英語力が大切であることはよく聞かれます。キャリアの話しから脱線してしまう質問をします。古賀さんは帰国子女ではなく自力で英語を覚えていかれたわけですが、古賀さんなりの勉強法はありましたか。
古賀:どうやって英語を修得したのかという勉強法は特にないのです。逆に質問をすると、皆さんも日本語を修得していますが、どうやって修得したか覚えていますか。自然に覚えていくものですよね。自然に覚えるというのは当然使っているからです。実は日本での中学・高校、大学で勉強してきた英語は十分すぎるレベルなのです。どの教科書もわかりやすい教材です。日本人の欠けているところはしゃべることを嫌がるということです。これが一番のネックです。
小村:確かに、読み書きは得意な人はたくさんいるんですけどね。
古賀:その通りです。私が唯一ひとつだけ法則的にわかることがあります。例えば、英語を聴いていると、わからない単語が出てくる。そうすると日本人はそこで立ち止まるのです。この単語の意味は何だっけ、この言葉は何だっけと止まってしまう。話しの会話はその後もずっと続いています。ひとつの言葉がわからないと、その後が真っ白になってしまう。英語が面白いのは、途中でわからない言葉があっても、そこを飛ばして続きを聴いていると、後からさっきのわからない言葉はこのことかなとわかるのです。会話では話を続けていると、途中で相手がわかりますかと聞いてくれる。そのわからない言葉がわからないと会話が続かない場合は、逆にその言葉をどういう意味か聞いてみるのです。そうすると相手もその意味ではなくて、こっちの意味だよと教えてくれます。こういうやりとりをしていると記憶に残るため、二回目からは同じところで引っ掛からなくなります。これを繰り返していったというのが、私が英語できるようになったやり方です。
小村:なるほど。どうしても完璧に把握しないと先に進めないという気持ちになってしまうのですが、思い切ってわからない単語はスルーし会話をし続けるというのが大事なのですね。脱線してしまいましたが、引き続き、いすゞ自動車への入社後を教えてください。
古賀:1991年から2002年までの10年間いすゞ自動車のマネージャーをやりました。97年から99年までの2年間は日本代表の仕事もさせてもらいました。ところが、景気の影響により2002年で廃部となってしまいました。そのままサラリーマンとして会社に残る選択肢もありましたが、畑違いの仕事はできないと思い退職しました。この頃は、まだbjリーグは誕生していなかったのですが、バスケをプロ化するリーグをつくろうという機運があり、2005年bjリーグが発足するまでの3年間は、起ち上げメンバーらとbjリーグをつくる活動をしていました。
小村:いよいよエージェントとしての活動に入っていくわけですが、そのきっかけはどういうことだったのでしょうか。今でこそ耳にするようになりましたが、当時はエージェントという仕事が受け入れられたのでしょうか。
古賀:当時はまだまだ旧態依然しており派閥が濃い時代でした。例えば、旧いすゞ派の人間が他のチームに行って仕事をするというのは、その人にどれだけ力があったとしても、なかなか難しい時代でした。今みたいにAからBにという移籍はご法度ではないのですが文化的に受け入れないという雰囲気がありました。そのような背景もあり、エージェントのように橋渡しをする人もいませんでした。私は最初からエージェントになろうと思い活動を始めたわけではありません。偶然の重なりがあったからだったのです。そのきっかけがトーマス・ウィスマンという人から移籍先の相談をされたことです。
小村:どういった人物なんですか?
古賀:ウィスマンは後に日本代表ヘッド―コーチやリンク栃木の監督をすることになる人物ですが、当時はいすゞ自動車で小浜監督の下でアソシエイトヘッドコーチを務めていました。チームが廃部になったので次のチームを探していたのです。私も協力をし全チームに交渉をしたのですが、前述した通り全チームから断られました。そこで考えたのは、男子チームにこだわるのではなく、女子チームにもアプローチをしてみようという考えでした。女子チームの監督の経歴を調べた結果、アリゾナ大学にコーチ留学をした経験がありアメリカのバスケットボールの指導法に理解がある内海知秀監督(後に日本女子代表監督として五輪を率いた名将)ならウィスマンの良さを理解して受け入れてくれるのではないだろうかと思いアプローチをしました。内海監督も興味を抱き、チームもコーチを探していたこともあり、2005年から女子WリーグのJOMOサンフラワーズでアソシエイトヘッドコーチ(助監督)に就任させることができました。
小村:でも言葉の問題があったのでは?
古賀:はい、ウィスマンは日本語ができなかったため通訳が必要で、チームからその相談をされて年間契約の通訳を私が引き受けることになったのです。これを機にバスケットボールに特化して様々なことをしていこうと思い、有限会社ファイブスター・マネジメントを設立しました。今思えば、それが初めてエージェントみたいなことをやったのだと思います。
小村:日本語ができない外国人コーチをチームに紹介をしたことがきっかけだったのですね。その後、日本人選手のエージェント活動もされたのでしょうか。
古賀:3年間JOMOサンフラワーズにて通訳の仕事をしました。このチームに大神雄子選手がおり、WNBA(Women’s National Basketball Association:アメリカの女子プロバスケットボールリーグ) にチャレンジをしたいという相談がありました。WNBAシーズンは夏の時期に実施をするので日本のシーズンと被らないのです。そのため彼女は元々WNBAにチャレンジをしたいという気持ちを持っていましたが、チャレンジをする術がないという悩みを抱えていました。2006年オフから彼女がアメリカに行くチャレンジが始まりました。ウィスマンも協力をしてくれたり、当時コービー・ブライアントの父親がbjリーグの東京アパッチの監督をしながら夏はWNBAの監督をしていたため日本にWNBAに馴染みな人がいました。このような方々に相談をしたり、NBAの人脈を辿って紹介をしてもらったりしたのですが、2006-2007シーズンは結果的にうまくいきませんでした。
小村:それでどうしたんですか?
古賀:WNBAの情報を調べていたところ、コーリー・ゲインズという人物を知ります。彼は祖母が日本人の日系三世で日本のジャパンエナジーでもプレーをした経験があり、WNBAのフェニックス・マーキュリーというチームのアシスタントコーチをしている情報を掴みました。すぐにコンタクトをしてトライアウトを受けさせてもらいたいと交渉をしたのですが、2006-2007シーズンは開幕直前ということもあり今からこのチームに入ることは難しいと断られました。タイミングに失敗したのです。ただ来てくれれば見せてあげることはできるという返答をいただきました。これを受けて彼女を連れて練習を見学しに行きました。アメリカは契約社会なので練習に参加することはできませんでしたが、来年是非このチームの一員にさせてくださいとアピールすることはできました。この流れがあったため、翌シーズンに入る時には、初めから彼女をプロジェクトしてWNBA選手にさせようと具体的に始動しました。その時がちょうど私も通訳の仕事が終わる時であったので、代理人として本格的に仕事をしようと思ったのが、2007のシーズンでした。ですから私は、バスケットボールの代理人を始める動機が、このような流れで何となく始まったというのが経緯なのです。
小村:他にも、代理人になった理由はありますか?
古賀:代理人になるもうひとつの理由としては、いすゞ自動車時代の話しにさかのぼります。当時は優勝をし黄金期であったため業界の中でのいすゞ自動車の存在感は大きかったです。そのような時期に、廃部になった他チームの選手をリクルートする仕事をしていました。私自身も入社して7,8年経っており、仕事ができると勘違いしていたこともありました。選手と奥さんに対してウチに来れば強いチームですし将来は心配ないですよと言う誘い文句を平気で言っていました。2002シーズンでいすゞ自動車が廃部する時に、その選手の奥さんから「あの時、ああいうことを言ったのに、これからウチの旦那はどうすればいいんですか」と言われたのです。幸いその選手は違うチームが見つかり移籍しましたが、私はその言葉がとてもショックでした。人の人生を左右する中でどういう物言いをしてしまったのだろうと反省しました。その経験から、選手が困っているときに自分が選手を助ける仕事がしたいという思いが強くなっていたというのがあります。この思いが元々あり、先の話で自然の流れで選手の代理人になっていったこともあり、エージェントという仕事は自分自身が勝手に使命感でやらねばならない仕事ではないかと思ったのです。
小村:選手を助ける仕事がしたいという動機と情動が、自然の流れというか、自分自身がその仕事を引き寄せてなった、まさにイノベーション的生き方ですね。ゴール設定に情動が伴い動くと自ずと道が開発されていく生き方です。その後の展開が気になります。
古賀:イノベーション的生き方・・・良い響だと思います! ウチの家内曰く、究極に不安定な生き方だそうですが(笑)
小村:所属先のチームが廃部になり、いつのまにか代理人の仕事をしていたというお話をいただきました。大神雄子選手のWNBAに入団させるまでのプロジェクトを具体的にお聞きしても良いでしょうか。
古賀:本格的に代理人として始動を始めた2007年は、サンフラワーズの契約が切れたウィスマンをリンク栃木のヘッドコーチへ転身させ、大神選手を一年前からの約束でWNBAのフェニックスに入れるという、エージェントとして大きなクライアントを二人抱えることができました。今までの業界の流れからどうやって選手を売り込むことができるのかは理解していましたが、実際に本当にどうやったら契約できるのか、すなわちこの選手をどうしたら採ってくれるのだろうという営業を考えねばならないのが毎回大きな課題です。
小村:なるほど。
古賀:大神選手のWNBAへのチャレンジの具体的な話しです。どうやったらチームのGMがサインをしてくれるのだろう。ここからのスタートでした。日本人がアメリカに行く大きな問題のひとつにビザの問題があります。大神選手のアメリカ挑戦での壁はまさにここにあります。契約を締結した段階で米国チームに行く場合はビザの問題はクリアするのですが、トライアウトという形で米国チャレンジをする場合は、練習はできてもプレシーズンまでしか滞在することができません。試合に出られないのであれば、何のために練習を頑張れば良いのかがわからなくなります。
小村:やはりビザの問題は大きいのですね。
古賀:私はエージェントをしている時にわからない問題にぶち当たった時は専門家に聞くというのを徹底しています。ビザの問題にはビザを専門分野とする弁護士がいる。その弁護士と戦略を立てました。ビザにも種類が色々あり、最も取得したいプロフェッショナルのP1ビザは契約書を締結していなければ取得できません。トライアウトであるとP1ビザは取得できない。専門家の意見は第一段階手前としてB1ビザがある。B1ビザはプロゴルファーや格闘家など通常の給料はもらえないが賞金なら得られるビザです。通常の人は取得が難しいビザですが、大神選手の経歴であれば取得ができました。B1ビザでもプレシーズンの試合には出られませんので、現地でチームから紹介してもらったビザに詳しい弁護士と組み、彼女の契約が進行すれば、B1からP1に切り替える戦略を立てたのです。
小村:その後は?
古賀:開幕まで6週間程度しかない中でトライアウトの練習生からスタートです。練習に入れてもらった後はビザとの戦いです。私もコーチに地道に営業して、アシスタントコーチと知り合いになり、広報の人はパソコンが好きだということを知り日本製の話しや携帯電話の話しをしながらGMに仲良くなるための情報を得、GMには毎日少しでもお茶を飲める環境をつくるところからやりました。同時に選手をサポートし、練習を見ながらですね。当時はプレシーズンが3ゲームしかなく開幕に入ります。そこでビザの問題もあるので、ヘッドコーチにどうするかを直談判したところ、ヘッドコーチは大神選手を気に入っており、「俺が独断で使うからプレシーズン始まったら連れて行く」と言ってくれました。ヘッドコーチはそれなりの権限もあるため、アウェーの一発目の試合で彼女を試合に使ってくれたのです。
小村:それは良かったですね。
古賀:でも、ビザもなく試合に出たことに対して、WNBAの事務局から怒られ、あと一歩でチームがペナルティを食らうところだと後から聞きました。結果的に、最初の1ゲームの出場のみで、2ゲーム、3ゲームの試合に出場ができませんでした。私からすると1ゲームだけ試合に出場できただけでもヘトヘトなのですが、選手としてはもっとプレーしたいという欲求があります。これで開幕以降試合に出られないとどうするのかと、選手としては行き場のない怒りとフラストレーションを私にぶつけてきます。選手の気持ちはわかるのですがルール上どうすることもできない。「何かやり方がないのですか」「ないんだよ」という会話をしながら、本人を励ましながら過ごしていました。
小村:選手も苦しいけど、古賀さんも苦しいわけですからね。
古賀:ちょうどうまい具合に、ヘッドコーチもGMも彼女のことを気に入ってくれて、開幕一週間前に契約をしようとなったのです。チームが契約書を作ってくれたので直ぐに弁護士を通して移民局でB1からP1のビザに切り替え申請をしました。今度は時間との戦いです。開幕戦に出られる権利があるのだけど、開幕戦までの一週間でB1からP1にビザが切り替わるかどうかというところです。P1ビザが取得できない限りは試合に出場はできません。選手は「いつになったら採れるのですか」と焦ります。幸いチーム側も協力をしてくれて開幕二日前にP1ビザを取得することができました。これが2007年に経験したことです。
小村:日本国内女子選手として初となるプロ契約を締結させた(WNBA選手としては萩原美樹子選手に続く2人目)裏事情には、このようなドラマがあったのですね。大変な仕事ですがこれはエージェントとしての醍醐味でもありますね。
古賀:エージェントという仕事は、契約を締結させることよりもその選手が活躍したら楽しいですね。これはチームのスタッフとしてゲームに勝った、優勝したという楽しさとは、ちょっと違う楽しさなんですよ。
小村:深い意味を察します。後編は代理人(エージェント)になるにはどうすれば良いのか、どういう動きが必要なのかを具体的にお聞きしていこうと思います。
(⇒[後編]へ続く)
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◆プロフィール◆
古賀敏陛
株式会社ジャパン・スポーツ・マーケティング
1991年-2002年いすゞ自動車ギガキャッツ(JBL)マネージャー。1997年-1999年日本代表男子バスケットボールチームマネージャー兼任。2005年-2008年JOMOサンフラワーズ(WJBL)通訳。2005年より現職。元スラムダンク奨学生の谷口大智選手(秋田ノーザンハピネッツ)や石川海斗選手(岩手ビックブルズ)をはじめとする日本人選手や、富士通レッドウェーブの BT テーブス ヘッドコーチ、秋田ノーザンハピネッツのジョー・クック アシスタントコーチなど、bj リーグ、NBL、NBDL、WJBLのプレーヤーやコーチの日本国内と海外への移籍業務を行っている。
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