2016/05/09 第3回 河島徳基氏(RIGHT STUFF) 『1を2ではない、0を1だ!スポーツ業界の10年』(前編)

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理事長の小村をホスト役とした企画・「対談すごトーク」。第3回目となるゲストは、株式会社RIGHT STUFF取締役の河島徳基さんです。

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■グローバルな幼少期の体験からシーズンスポーツの重要性を知る

小村:今回の対談すごトークはスポーツ会社に人材紹介ビジネスを展開している株式会社RIGHT STUFF取締役の河島徳基さんにお越しいただきました。実は河島さんとは10年前から総合学園ヒューマンアカデミーの学校のスポーツマネジメント講座で多くの教え子たちをスポーツ業界へつなげてきた仲です。私が運営や学生フォロー役で、河島さんは講師役として、今でもヒューマンアカデミーで継続しています。そんな河島さんとは長い付き合いであるにも関わらず、河島さんに対して詳しくお話を伺う機会がありませんでした。今回は河島徳基という人物像に迫りつつ、この10年間を振り返り、今後のスポーツ業界への人材と育成をテーマに話しをお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。まずは河島さんご自身のお話しをお聞きしたいと思います。帰国子女とも聞いていましたが、簡単に生い立ちを聞いてもいいですか。

河島:私は父が商社の転勤の関係でタイという国で生まれたんですよ。タイは国籍を選べる国なのですが、徴兵制があるので、親が生まれた時に日本人として届けを出しました。3歳の時に日本に帰ってきたのですが、すぐにアメリカのオレゴン州のポートランドに行きました。6歳で日本に戻りました。ですから幼少期は日本で住んでいなかったのです。もちろん、外では英語を話していましたが、私は一人っ子なので、家族といるときは日本語で話していました。

小村:タイ生まれは初耳でした。小学校は日本で通われたのですね。

河島:小学校は日本で生活をし、5年生の時に父親がニューヨークに転勤になりました。また中学校でアメリカに行くことが決まっていたため、アメリカと日本の学校をスムーズに転校復学ができるように、私立中学校の学習院中等科に入りました。日本の入学は4月で、アメリカは9月ですから、学習院中等科に入学するも、1年生の夏に父がいるニューヨークに行きました。住んでいたのはニュージャージーで、土曜日に日本人学校に通いながら、平日は普通に現地の中学校に通いました。日本からもテストが送られてきて両立しながらそれもこなしていましたよ。

小村:子供時代はグローバルな環境で過ごされたのですね。何かスポーツはやられていたのですか?

河島:私にとって大きな出来事がありました。小学校、中学校最初と私は野球少年でしたのでアメリカでも野球をやろうと思っていたのです。ところが、野球部がないんですよ。シーズンスポーツ制度をひいていて、行った9月にアメリカではアメリカンフットボールとかサッカーとかしかないんですね。野球ができないので、とりあえずサッカーをやりました。そして冬はレスリングをやったんです。

小村:レスリングですか!? 冬のスポーツと言えばバスケットボールとかではなかったのですか?

河島:いや、バスケットボールは体育の授業レベルですし、体も小さかったので、周りが上手すぎてついていけないなと。レスリングは体重制に分かれているので体が小さくても活躍できると思ったのです。自分の階級は人も少なかったので楽しくやっていました。そして、春になってやっと野球ができたという感じです。それも、野球をやりたいと申込みをすると、コーチから電話がかかってきて、お前はどこどこのチームだから明日から練習をすると言われ、集まってちょろっと練習したら後はずっと試合だったんですね。

小村:それは学校の部活ですか?

河島:地域のリーグですね。4月から6月くらいまでのリーグで、野球をやりたい人が集まって、みんなでチーム分けしてやるという感じです。その中で、うまい子は更に上のチームに引き上げられてという感じです。なので、アメリカではやりたかった野球ができる期間が3か月しかなかったんですよ。でもそのおかげで、日本にいたら絶対にやらなかったであろうレスリングや色々なスポーツを体験できました。シーズンスポーツが大切だと思っているのは自身の体験があるからなのです。

小村:日本は野球だったらずっと野球しかしない環境ですしね。

河島:そこが問題だと思っています。野球部が組めないから地方では違う地域の野球部員が集まってひとつのチームをつくって試合をするという記事を読んだのですが、何時間もかけて移動して集まって……。そうじゃなくて、自分の学校に野球できる人はいるだろうと思うんですね。試合の時だけ他の部活から呼んでくればいいじゃないかってね。いろいろなスポーツに携わった方が、その子の可能性も広がるのではないかと思うし、楽しいと思うのですよね。

小村:アメリカには中学2年の12月までいて、その後、また日本に戻って来られたのですよね。

河島:また学習院中等科に戻り、高等科でも高校野球やりましたが、学習院大学では長距離が得意だったので陸上部に所属しました。野球は投手ありきのところですが、陸上は自分次第ですからね。肩を痛めたこともあり、トレーニングに興味を持ち勉強していた時に、プロ野球ニュースの特集でフィジカルトレーナーの存在を知りました。こういう仕事があるのかという気持ちからフィットネスクラブでアルバイトを始めたのです。本格的にトレーナーの勉強をしたいなと思い調べていくと、アメリカがいいんじゃないかとなり、大学卒業後、アメリカ・ウィスコンシン州のUniversity of Wisconsin La Crossのスポーツ科学大学院へ行き、ストレングス&コンディショニングコーチ専攻で学びました。日本人がいない学校を選んだつもりでしたが、初日のバスで日本人と出会いましたね(笑)

小村:今度は親の都合ではなく、自らがアメリカに乗り込んだという感じですね。

河島:2年間大学院で過ごし、その後、カリフォルニア州のThe Riekes Centerにてアスリートにトレーニングを教える仕事に2年間従事しました。その時に父親がガンになり余命6か月と宣告されたのを機に帰国を決意したのです。

小村:お父様がそのようなことになってしまい帰国を決意され、その後、日本ではどのようなご活躍をされたのですか。

河島:2000年に帰国してから、都内でパーソナルトレーナーをしていた時に、新聞記事に阪神タイガースの通訳を募集する求人が出ており、受けてみないかと関西の友人に言われ受けたのです。

小村:トレーナーではなく通訳としてだったのですね。それで阪神タイガースに入ったわけですね。

河島:それが、入るまでの過程でいろいろありまして。実はタイガースには最終面接で落とされたのですね。ところが、忘れもしない2月13日にタイガースから私に電話がかかってきて、今からでも来られないかと言われました。どうやら決まっていた通訳が前の会社を円満退社できなく来られなくなったとのことでした。キャンプも始まっており困っているから、今からでも良ければ来てくれと言われたのです。その二日後にはボストンバック1つで高知空港に降り立っていたという考えられないことが起こりました。こればかりは自分でコントロールできることではないので、その時思ったのは、何が起こるかわからないということですね。また、ドラマ的なのが、私の父親の家族は熱烈なタイガースファンなのです。父親はガンで亡くなりましたが、私も日本に戻ってきたはいいけど大成せずにフラフラしていた時のタイガース入りでしたので嬉しかったです。

小村:お父さんがつないでくれたのですね。関西の友達がタイガースの求人を見つけて連絡をしてきてくれたのですか。

河島:詳しく説明をすると、これもドラマがあるのですが、関西の友人がカレー屋に入ってスポーツ新聞の関西版を読んでいたのです。そこにタイガースの通訳の求人記事が載っていて、その場で私に電話をかけてきたのです。そして、それを受けろと言ってきたのです。実はその友人は、今ライトスタッフで一緒にやっている社長の福田(株式会社RIGHT STUFF 代表取締役社長 福田龍秀)だったのですよ。最初はトレーナーだったので、通訳はやりたくないという気持ちだったのですが、とりあえず履歴書だけ出してみようという感じでした。

小村:どのくらいの倍率だったのですか?

河島:聞くところによると、90通来て6人と面接したと言っていました。関東から来たのは私だけだったようです。2002年なので、当時はまだネットもあまり普及していなかったですし、関西版の新聞しか求人を出していなかったみたいでした。

小村:その後、通訳として阪神タイガースに入り、4年間所属されていたのですよね。

河島:1年間通訳して選手と同じように契約更改があります。12月初旬くらいに呼び出され、来年も通訳よろしくと言われハンコを押したのです。12月末の納会の直前に偉い人たちが集まる場に呼び出され、来年営業に行ってもらいたいと言われたんですよ。二週間前に通訳として契約更改しているにも関わらずだったため驚きましたが、営業も面白そうだと思い承諾しました。

小村:営業された年はタイガースが優勝した年でしたね。営業は何をしていたのですか? 法人営業ですか?

河島:法人営業はしていません。事業部というところでファンクラブや球場内のサンプリング、トラッキラッキーの担当、野球教室をやったり、球場内のイベントの窓口をやっていました。意外にこれが面白くこのポジションの業務を継続したいと思いましたが、翌シーズンから通訳に戻されました。その時に、営業に戻れる可能性はあるかと聞いたところ、ないとはっきり言われました。

小村:タイガースでは通訳と営業で4年間従事され、次のステップへと移るわけですが、その変化と心境を教えてください。

河島:タイガースの4年間は、1年目は一軍投手通訳、2年目は営業、3年目は二軍の通訳、4年目は野手の通訳を担当しました。実は最後の4年目は消極的残留という言い方が正しいかわかりませんが、タイガースを辞めると決めた1年間でした。通訳ではなく次のステップを模索したいと思ったのです。通訳は1年契約ですので、一緒にやってきた仲間の通訳が目の前で切られた姿も見ています。年を取って切られたら通訳は他の何かへのふり幅も狭いですし、先が見えない不安もあります。そんな不安を抱きながら、タイガースのブランドだけでしがみついた生き方はしたくないなと思いました。その当時、2004年に近鉄がなくなり球界再編がありました。球界再編で楽天が誕生し新球団職員を募集していたので私は受けに行きました。楽天の新球団職員募集に対して8000人がエントリーしたんですね。これだけ球団への就職を希望する人たちがいるのかと初めて知りました。球団職員になれるのは数名なので、ならばスポーツ業界への人材紹介ビジネスを展開する会社も必要ではないかと思いました。通訳しながら1年間いろんな人たちに会って準備をし、2005年に私にタイガースを勧めた福田と一緒に株式会社RIGHT STUFFを起ち上げたというのが会社設立の動機です。

小村:ヒューマンアカデミーでスポーツマネジメント講座を起ち上げたのが確か2006年頃だったと思います。当時はまだ大学や他専門学校でスポーツマネジメントを学ぶ場がなく、けっこう先駆けで起ち上げました。私もその頃、スポーツメンタルトレーナーからこれからの若者を育成し繋げたいという思いから教育者に転身した時期です。あれから10年、当時と今ではスポーツを取り巻く環境も大きく変わってきました。次回は、この10年間を振り返りながら、今後のスポーツ業界への期待などを聞いてみましょう。
(⇒[中編]へ続く)
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◆プロフィール◆
河島徳基(かわしま・のりもと)
株式会社RIGHT STUFF 取締役。学習院大学卒業後、アメリカ・ウィスコンシン州のUniversity of Wisconsin La Crossのスポーツ科学大学院へ。ストレングス&コンディショニングコーチ専攻。カリフォルニア州のThe Riekes Centerにてアスリートにトレーニングを教える仕事に従事後、パーソナルトレーナーを経て、阪神タイガースで通訳や営業に携わる。2005年スポーツ業界に特化した、人材紹介の会社「RIGHT STUFF」を設立。「SPORTS JOB NETWORK」(https://sjn.link/)にてスポーツ業界への人材紹介ビジネスを展開。著書に『スポーツ業界の歩き方』(ぱる出版)。

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