2016/06/01 第7回 菊池康平氏(元ボリビアリーガー)『あきらめない心~海外プロリーグへ挑戦し続ける男~』

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理事長の小村をホスト役とした企画「対談すごトーク」。第7回目となるゲストは、海外プロリーグへ挑戦し続ける男・菊池康平さんです。

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■夢を実現させるために16か国に飛び込む

小村:海外でプロサッカー選手になる夢を達成するべく、2001年から現在までに16か国でサッカーを挑戦し、ついにはボリビアでプロサッカー選手の契約を勝ち取った菊池康平さんにお越しいただきました。いろいろお伺いしていきたいと思います。まずは、その「行動力」のすごさですね。その第一歩目を築くきっかけとなった動機を教えていただけますか。

菊池:明治大学に入学しサッカー部の門を叩いたのですが、あまりのレベルの差に愕然としました。1学年120名くらいおり全員が全国から推薦で入学してきた強者揃いで、その中に、無名の私も練習参加をさせてもらいました。持久力はあったので下手でしたが頑張りが認められ入部できましたが、4年間自分は試合に出られないのではないかと思うほどの差をすでに感じていました。まだ大学一年生の始まったばかりの段階で判断をするのもどうかと思いますが、大学でレギュラーを掴むことではなく、シンガポールリーグへのチャレンジから海外でプロ選手を目指していく気持ちにシフトしていったんです。

小村:国内のいち大学内ではなく、いきなりグローバルにいってしまったのですね(笑) それはどうしてだったのでしょうか?

菊池:海外に行けばサッカーが上手くなれると漠然と思っていたんです。後はとても失礼な言い方になりますが、単純に大学でレギュラーを目指すよりも、シンガポールのリーグで外国人枠として試合に出場を目指す方が可能性としてチャンスがあるのではないかと思ってしまったのです。そのくらい国内の大学のレベルは高いと痛感しました。ですので大学では入部許可を得たのですが、二か月間練習に参加をしただけで辞め、夏にはシンガポールに行っていました(笑)

小村:いつ頃からプロサッカー選手になろうと夢を抱き始めたのですか。

菊池:小学校5年生のときにJリーグが開幕をしたので、漠然とはその時期にJリーガーになりたいと思い始めました。高校生の頃にサッカーをうまくなりたいという気持ちが強くなり、様々なクラブのユースのセレクションを受けましたがことごとく不合格で、なんとかFC町田のユースチームに合格することができました。しかし、チームのレベルが高く、高校1年生のときに全国大会出場を果たしたのですが、私はベンチにも入れずにビデオ係でした。

小村:選手としてベンチ入りもできずにスタンドでビデオ係は辛い状況でしたね。

菊池:試合に出られないため、高校2年生のときに柏レイソル青梅というチームに移籍を考えましたが、既にトライアウトは終わっていました。それでもチームに電話をして練習に参加をさせてくださいと懇願しました。電話口の相手はブラジル人コーチで「来ればいいじゃん」と軽く言われ、言ってみたところ意外にも練習参加ができたんです。10日程練習に参加をしたらそのブラジル人コーチに「入ればいいじゃん」と言われチームの一員になることができました(笑) 動いたら良いことがあると確信した瞬間でしたね。自分で切り拓けば道はできると思えた経験でした。

小村:高校生にして自分で切り拓く成功体験があったのですね。「動いたら良いことがある」その後の大きな土台になる言葉ですね。その後、大学のサッカー部に入るもシンガポールリーグへチャレンジしていくことは前述しましたが、そもそも海外で挑戦をしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか。

菊池:海外のサッカーを知るきかっけは、高校3年生の時に、たまたま地元(東京・多摩市)でシンガポールリーグのプロテストが開催されチャレンジしたことです。結果は不合格でしたが、海外サッカーはヨーロッパや南米だけではなく、シンガポールにもあるということをその時に初めて知りました。

小村:シンガポールを最初の挑戦国にしたのは、そのような経緯があったのですね。シンガポールでの初挑戦はいかがでしたか。

菊池:シンガポールでのプロテストには、シンガポールリーグのセレクションへの斡旋を行っている業者を通して受けに行きました。2か月滞在しチャレンジをしていましたが結果的にプロにはなれませんでした。しかし、シンガポールでは様々な発見があったんです。現地で出会った色々な国籍の選手からシンガポール以外の国々にもプロリーグがあることを聞き、他の国へチャレンジしてみようと思ったのもこの時です。またシンガポールでは最初はサテライトチームの練習に参加していて、トップチームの監督に見てもらう機会はなかったのですが、自分で監督に交渉したらトップの練習にも参加させてもらうことができたのです。この時に斡旋業者を使わなくても、英語など言語ができれば、自分次第で道を切り拓くことができるのではと感じましたね。

小村:シンガポールを皮切りに、挑戦をした国はカンボジア、インド、フィジー、オーストラリア、ベトナム、ラオス、ブルネイ、マカオ、タイ、マレーシア、香港、モルディブ、モンゴル、パラグアイ、ボリビアの16か国ですね。ほとんどがアジア圏内もしくは南米です。誰もが行ったことがない国にチャレンジをすることは、思っていても実際は躊躇すると思います。自分なんかがと否定的になったり、不安面が出たりします。しかし、菊池さんは「とりあえず行ってしまおう」と行動をしました。気持ちを掻き立てた動機は何でしょうか。また自信はあったのでしょうか?

菊池:私は身長が185センチあり、背が高いというのが武器で、プレーが下手でも体を張ったことは負けないという強みがありました。アジアの国は小柄な選手が多いです。その国にないものを持っている選手を外国人選手枠で獲得するので、背が高いことで相手も何かできるのかなと思ってくれるのではないかと思ったからです。実際にハッタリは利きました(笑)

小村:長身を武器にダメ元精神でチャレンジをしていく。やる前に決めつけるのではなく、まず行動がステキですね。

菊池:失敗したなと思ったのは2か国目の挑戦先のオーストラリアです。皆私と同じくらいの身長なので体型が被ってしまったのです。オーストラリアで求められる外国人選手は小柄で俊敏性がある選手でした。この失敗から、その国にないことをアピールできる国にチャレンジしていこうと思いました。それ以降は、自分の強みを活かせそうな国に飛び込みで行く「道場破り形式」をスタートしました。

小村:なるほど。そうすると総合評価が低くてもその国で活かせる強いアピールがあればチャンスがあるということですね。今でこそインターネットやソーシャルメディアが普及したため、行く前に事前に調査をしたり連絡をとることが容易になりましたが、年当時はまだ浸透していなかった世の中です。どのような流れでアタックしていったのでしょうか?

菊池:当時はインターネットが出始めたばかりでホームページがない球団がほとんどでした。例えば「カンボジア サッカー」で検索しても何も出てこないのです。ヤフー香港のサイトに入り「球 蹴 協会」で検索したら、これがサッカー協会の住所かなという発見があり、昨年の予定を見たら概ねこのくらいのシーズンということがわかってきます。しかし、その情報もあてにならないこともあり、狙いを付けて現地に行くと今年はシーズンが変わって全然違いますと言われたりしました(笑)

小村:情報収集も苦労されていたのですね。情報がまともに入らない中、どのようにアタックをしていったのですか。

菊池:流れとししては、まずは国を決めて微々たる情報を手にしてとりあえず行ってしまう。現地のサッカー協会でチームのリストと電話番号を聞き、そこから直接チームに赴いて交渉します。時にはストリートサッカーに混ぜてもらいながら情報収集をすることもありました。チームに直接連絡をして練習に参加をしたいと希望しても代理人を通せと言われたり、何も教えてくれなかったりします。そこで私は日本から来たサポーターで練習を見たいと懇願をすると、おおむね教えてくれました(笑) もちろん現場に行って、ただ見学ではありません。自分自身も練習着を着用し、いつでも参加ができるような臨戦態勢を整えておきます。現地に行かねばそのチームのユニフォームカラーがわからないので、何種類も色違いのTシャツを仕込んで持参し用途に応じて着ました。そして直接監督に直談判です。もちろん最初は相手にしてもらえないですが、根気強く練習に参加をさせてもらいたいことをアピールし続けると、「じゃあ、ちょっと見てやる」となるのです。練習に参加させてもらえました。

小村:高い成功率ですね。シカトされたりスルーされることなく、ほとんどの確率で参加ができたということですか。

菊池:1回だけベトナムで本当に無理なんですと言われたことはありますね(笑) 目の前で練習をしていて参加できなかったのはそれが初めてで、後にも先にもこの時だけは上手くいきませんでした。あとマカオでは練習場所が最後までわからなかったということはありました。

小村:すぐに練習に参加できる格好をして乗り込んで直談判すると、意外にも成功できてしまうのですね。勇気と度胸と一歩踏み込む力ですね。日本人として得したことはありましたでしょうか。

菊池:アジアに行くと、当時は中田英寿選手や中村俊輔選手は知られているので、そういうブランドはありました。2002年日韓W杯もあったりとアジアを代表して日本代表チームが活躍していたこともあり、日本サッカーに対してポジティブな印象を持っているアジア人は多かったです。

小村:1998年にフランスW杯に日本は初出場し、ちょうど日本サッカーが強くなって世界に注目されてきたタイミングというのも菊池さんのチャレンジに後押しになったのかもしれませんね。そして当時は誰も日本人で挑戦していなかった国に行っているわけですからね。今でこそ、世界各国では誰かしら日本人選手が活動をしていますが当時は誰もチャレンジしていなかった未開の国ですからね。

菊池:そうですね。極稀に日本人選手がいる場合もありましたが、ほとんど皆無でしたね。ですから飛び込みで日本人が来る珍しさもあったかもしれませんね。現地では、浜崎あゆみを知っているよとか、アニメの話題とかあり、日本に興味を持ってくれている人たちが多かったのも後押しだったと思いますね。

小村:いろいろな面で日本に興味を持ってくれている人たちがいたことが良かったですね。逆に日本人でマイナスになったこともありましたか。

菊池:マイナスと言いますか私のことなのですが、現地の人の日本人選手のイメージは足元が器用で上手いというイメージを持たれています。それに対して、私は足元が不器用なので、「なんでお前は日本人なのに足元がへたくそなんだ」とよく言われていました(笑) そういう色眼鏡は良くも悪くもありました。

小村:海外チームですので言葉の壁もあったと思います。現地での交渉やコミュニケーションはどうされて克服したのですか。

菊池:英語圏のところは、最初の交渉は電話なので、「どこで練習をしているのですか」「どこの駅が一番近いですか」と聴く言葉を用意しておきました。一番の問題は聴き取れないという問題です。聴き取れず何回も聴き直しているうちに切られてしまったなど、何回かチャンスを不意にしてしまった経験もありました。最初はそれでも果敢に挑み続けていると、それがトレーニングになりました。「身長は何センチ」「どこでやっていたの」「ポジションは」と、同じことを聞かれることが多く、回数を重ねるごとにうまくなっていきました。

小村:語学の苦労もあったと思いますが、発展途上国が多いですから、それ以外にも苦労されたことは多かったのではないでしょうか。

菊池:ボリビアは人種差別が強かったですね。仲良くなれば何も言われなくなるのですが、アジアに対する偏見や無知があり、何も悪いことをしていないのに差別的な言葉を言われることが嫌だったですね。拳銃を突き付けられたことも一回だけありました。また今まで大きな事件に巻き込まれることはありませんでしたが、日本人はお金持ちと見られることもあり狙われやすいため、安全対策としてはお金を持ち歩かないことを徹しました。またあまり良い格好をしないことも心掛けていました。服も毎回同じものを着てあまり物を持っていないと思わせるようにしていました。幸い私の顔が日本人っぽく見られないこともあり、周囲の方々に溶け込みやすい顔立ちだったというのが良かった点ですね(笑)

小村:海外、特に発展途上国では病気などにも気を付けねばならないと思いますが。

菊池:これは最近の2014年のラオスでのチャレンジの時です。無理して田舎のチームに飛び込みに行ったところ、突然野良犬に引っ掻かれ、その傷口を舐められるアクシデントがありました。現地の人から狂犬病になる恐れがあるから病院に行った方が良いと諭され、チャレンジどころか狂犬病対策のために緊急帰国をせざるを得ない状況もありました。その後、万を満たして次にインドへ飛び込みに行ったのですが、今度は40度近い熱が一週間止まらず、現地の病院の衛生状況が悪いので、自力で大都市まで出て緊急入院しました。そこの医者に血小板の数値が下がっており危険な状態だから両親を呼んでくださいと告げられ、それはできないと大使館に相談をしたところ、インドの隣りのバングラディッシュにいる日本人医師にカルテを送り確認をしてくれて、すぐには死なないと判明。結果的に数値も戻り元気になりました。どうやら殺人ダニに噛まれ毒がまわったようです。飛び込むとドラマが起こりますね。

小村:すごいエピソードばかりですね。ほぼアポなしで乗り込んで行っていますが、現地での生活はどうされていたのですか?

菊池:家賃や物価が安いので何とか貯金でやりくりできます。後は、タイとかでは家がないと訴え飛び込んだチームの寮に入ってしまうこともありました。寮ですと食事も無料でした。事前に調べ、あえて寮が付いているチームに飛び込んだりもしました。

小村:チャレンジ国にフィジーがありますが、この国はなぜ選んだのですか?

菊池:実は私はクラブワールドカップに出たかったのです。オセアニア地区ではフィジーのチームとニュージーランドのオークランド・シティFCが決勝を戦っているケースが多くありました。オークランドはレベルが高いので、フィジーであれば誰も行っていないからチャンスがあるかもしれないと思い、2回ほどチャレンジに行きました。しかし、2回ともまともな練習ができなかったという苦い経験でした。単身でオークランドと契約しクラブワールドカップに連続出場している岩田卓也選手はスゴイと思います。

小村:単身で乗り込んでチャレンジをするという後輩たちに導線をつくった菊池さんもスゴイと思いますよ。

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■あきらめない心が夢を現実化する

小村:チャレンジしてきた国はアジアが多いですが、南米にもチャレンジされています。そしてボリビアでついにプロ契約を勝ち取ります。2001年からチャレンジが始まり7年後の2008年13か国目の挑戦ですね。意外にもサッカーが盛んな南米ボリビアでした。そこに切り込んだのも背が活かせるという動機だったのですか。

菊池:そうです。それと他の理由としては、標高が高く、治安も悪く、他の国の人からすると住みにく国だったというのもあります。そのような国には他国からアプローチをかけてくる選手は少ないです。ライバルが少なかったのが功を奏したところはありますね。

小村:ついにプロ契約を勝ち取るわけですが、海外で練習参加させてもらい、その短時間で認められなければなりません。何か特別なアピール方法はありましたか。

菊池:練習参加や練習試合でも短時間で見てもらわねばならないので、何をするにもオーバーリアクションをしていました。普通にヘディングするよりも、何か大きな声を出しながらドカンとヘディングをし大きく見られるようにですね。インパクトを意識していました。あとこれは私の戦略でもありますが、サッカー外の時間の交友を深めました。けっこうチームメイトから無茶ぶりをされることも多かったです。「お前、歌を歌え」とかいきなり言われ、ここで躊躇したらそれで終わってしまいますが、そういう無茶ぶりには応えて歌を歌うと、皆も歌いだしたり乗ってくれたりし、気持ちの距離感が近くなり仲良くなれます。仲良くなると練習で失敗してもマイナスにとられずに「いいよ、次頑張ろう」と前向きな言葉を投げかけられるようになります。異国の地に入りチャレンジをしているため、その現場の人に好かれる面白いキャラクターになるようにしています。

小村:ピッチ外の時間が非常に重要ですね。異国であっても対人間であるということですからね。プロ契約をしたという夢は達成したと思いますが、今後もチャレンジを続けていく、その動機は何でしょうか。

菊池:ボリビアではプロ契約を結べたものの、公式戦には一度も出れなかったので、そのことだけが心の片隅に残っていたんです。ですから、プロサッカー選手として大観衆の前でプレーをしたいという夢を今でも持っています。日本でいう天皇杯やナビスコカップのように短期決戦型の試合に出る外国人枠のプロ契約を目指してチャレンジをしていきます。

小村:菊池さんの行動力からは聴いている私も勇気がもらえます。チャレンジすればチャンスが生まれる。チャンスをどう活かすかどうかは実力の問題はありますが、自分で壁を作らず果敢に飛び込む姿勢は大事ですね。結局、壁を作っているのも不安になっているのも躊躇しているのも全部自分が作り出しているものであって、相手から拒否されているわけではないです。自分の未来を自分で拒否しているだけですからね。それはもったいないですね。未来は無限大でちょっと良いなと思ったらチャレンジすればいいんですよね。チャレンジして次を考えれば良い。そこの場で出会った人脈も宝になります。最後にメッセージをいただけますでしょうか。

菊池:何でもまずチャレンジ。動くことによっていろいろと広がります。迷っているならまずは動くことで良いことがあります。

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ボリビアのチームとの契約

(了)

◆プロフィール◆
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菊池康平(きくち・こうへい)
元ボリビアリーガー(サッカー)。海外でプロサッカー選手になる夢を達成するべく、大学時代より複数の国の海外チームのトライアウトに挑戦し続ける。2008年ボリビアのサンタクルス州の1部リーグに属する[CLUB DEPORTIVO UNIVERSIDAD]でプロ契約しプロデビューを果たした。現在は16カ国でサッカーを挑戦した経験を夢先生などを介して子供たちに伝えている。また、株式会社パソナのスポーツメイト事業にてアスリートへの就労支援にも従事。

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