2016/12/29 第14回 藤田 豊氏『Jリーガーから10の会社を起ち上げた実業家へ ~オブリガードの軌跡~』(前編)

理事長の小村をホスト役とした企画「対談すごトーク」。第14回目となるゲストは、元Jリーガ―で、現在はNPO法人オブリガードサッカークラブ代表の藤田 豊さんです。

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■フランスワールドカップのピッチに立った中学2年生

小村:2015年6月からスタートした「すごトーク」も1年で80名を超す方々にお越しいただき実施しています。
今回のゲストである藤田豊さんは最も「すごトーク」をやりたかった一人でもあり、やっと実現したという感じでありがとうございます。と言いますのも、他のゲストの方々より最も古い付き合いの一人と言っても過言ではありません。藤田さんとは10数年前にお会いし、当時Jリーガーであった藤田さんのメンタルトレーナーをさせてもらっていたという仲でした。引退されてオブリガード起ち上げ初期にも少し関わらせてもらいました。それ以来、10数年の時を経ての再会のようなものですので、昔話も入れつつ、キャリアの話を伺っていこうかと思います。よろしくお願いします。まず、サッカーの出会いからお聞かせください。

藤田:私は小学校からサッカーを始め、小学校、中学校と普通のサッカー部でサッカー少年をやっていました。
中学校の時はサッカー部員が私を入れて2人しかいなかったのです。幽霊部員はいて、試合の時だけに来て、わざとファールしてレッドカードをもらって喜んでいるようなやんちゃな中学校でした。そんな環境でもあったので、私は全くサッカー選手を目指そうと思ったことがなかった中学生時代でした。

小村:そこからどうやってJリーグ選手になっていったのか興味ありますね。

藤田:中学校2年生の夏休みに、友達の家でファッション雑誌を読んでいたら、アクエリアスが1998年フランスワールドカップのボールボーイを募集していたのです。ちょうどその頃は中田英寿選手がブームになっていた頃で、フランス行きたいなと思いました。応募するしかないと思い家に帰ったら、たまたま一枚だけハガキがあったのです。フランスに行きたいという作文を書いて出しました。そしたら、一か月後にコカ・コーラから当選の電話がかかってきたのです。

小村:それはすごいですね。どんな作文を書いたのですか?

藤田:作文に書いたことは事実のことを書きました。当時は将来サッカー選手になりたいという夢が強かったわけではないのですが、ワールドカップの舞台に立ちたいという雲がかった夢を書きました。
それが当選しフランスに行けることになりました。

小村:フランスワールドカップでのボールボーイの経験はどうでしたか?

藤田:私は中学生の時にサッカーが上手いと思っていました。ただし部員が2人しかいなかったので、たまたまもう一人が下手なだけでした(笑) 2人の中でのサッカーでは私は日本一サッカーが上手いんじゃないかと思っていました。そんな気持ちで成田空港に行きました。ボールボーイには30名選ばれていました。その選ばれた人たちは、中田英寿選手が所属していたベルマーレのジュニアユースの選手とか、私達の年代の日本代表の選手とか、すごい人たちが選ばれていました。私は選抜にも選ばれたことがなければ、自分の中学校から出たこともなく、練習試合もほぼしない学校であったため、この人たちを見て、私はサッカーが下手かもという現実を感じました。そもそも生まれて初めてサッカーを見に行ったのが、このフランスワールドカップのピッチの中だったのです。初めてスタジアムの中に入った時に前身鳥肌が立ったのです。スタジアムには8万人入るナントという競技場で、チリとカメルーンの試合のボールボーイをさせてもらって、実際ボールが飛んできたり、目の前でシュートが決まったり。その時「これだ」と思ったのです。それが中学2年生の時でした。

小村:初めてのサッカー生観戦がフランスワールドカップだったのですね。しかもその場で強烈な刺激を受けてしまった。

藤田:フランスでの一週間で色々な経験をさせてもらい、日本中に友達もできました。この経験から私は別人になってしまったのです。今まで雲がかった夢や、目標もなく過ごしていた中学時代だったのが、そこからガラッと変わってしまいました。

小村:具体的にどのように変わったのですか。

藤田:毎朝6時から練習をして、部活が終わったらその後一人で2時間ボールを蹴ってという生活をし始めたのです。なぜなら「私はプロサッカー選手になってワールドカップに出る」という気持ちになったからです。それは雲が何もないキレイな夢だったのです。もう現場を見たので、あのピッチに立ちたいというその気持ちだけでした。

小村:夢が明確になったのですね。とは言っても、部員は2人しかいないのですよね。

藤田:そうなのです。これじゃダメだと思い、地域に強い社会人チームがあったので、そこでサッカーをやりたいと電話をしました。電話では「私はワールドカップに出たいから入れてください」と言ったら、「高校生なら考えるけど中学生は危ないから無理だよ」と笑われて切られたんですよ。でも、私はスパイクを持ってその日そのグラウンドに行ったのです。そしたら、そのチームの監督も根負けして、怪我をしても知らないぞという約束で入らせてもらったのです。

小村:その熱意はすごいですね。その後も継続させてもらったのですか。

藤田:はい。以降もお金払って、普通の社会人と同じようにやらせてもらいました。しかし、けちょんけちょんにされて、でもそれがすごく私にとっては新鮮で自分よりもサッカーが上手い人とやる場だったのです。

■「中田英寿」になるスイッチ

小村:高校時代はいかがでしたか?

藤田:中学校3年生で親から高校の進路のことを聞かれた時に、私は真っ先にブラジルに行くと言ったのです。高校受験の勉強も何もしておらず、ブラジルしか考えていなかったのですね。そしたら笑われ、馬鹿野郎と引っ叩かれて、ちゃんと考えろと言われました。そんな父親から新聞の切り抜きを渡されました。鹿島アントラーズのユースのセレクションの告知でした。父親からダメもとで受けてみろと言われ、受けてみました。

小村:ここで鹿島アントラーズユースへの流れになるのですね。

藤田:私は大事な場面の時にどっかにスイッチがあって、中田英寿になれるんです(笑) 本当に大事な試合、大事な大会、大事なセレクションで、いつも「藤田豊」という人間からスイッチがポチッと押されて、今までやったこともないプレーが出来ちゃうような選手だったのですよ。アントラーズのセレクションに900人くらいいて、「受かるのが8から10名くらいですよ」と言われており、そしたら受かっちゃったんですよ(笑) その日はもう中田英寿というスイッチが入って、「なんかみんなたいした事ねぇな」と思って。合格してしまったんですね。

小村:メンタルトレーニングでスイッチの切り替えというのがありますが、無意識にできてしまっていたのですね。合格したということは、ブラジル行きはなくなったということですね。

藤田:「とりあえずブラジルはやめて、アントラーズ行くか」みたいな、ちょっと上から目線でアントラーズに行かせてもらいました。でも、寮に入りながらサッカーをしていたんですが、普段は「藤田豊」です。1年間試合に出ることもなく毎回レフェリーをやらされていました。ベンチにも入れず、試合にも出られず。下手くそなのです。足は速く、背も高かったのでディフェンスにされ、ディフェンスの練習なんて何もしたことがなく、そこで生まれて初めてヘディングしたんじゃないかぐらいの感じが高校1年生だったのですね。

小村:しかし、高校生でプロ契約を勝ち取っていますね。

藤田:高校2年生の10月にプロサッカー選手になれました。5月9日の誕生日にプロ契約をさせてもらって、それが日本サッカー協会の最年少プロ契約歴代10番目の記録みたいです。何でプロサッカー選手になれたかというと、高校1年生から高校3年生の卒業するまで、毎日欠かさずやったことがあります。朝学校行く前の1時間と、ユースの練習が終わるのが20時でそこから寮に帰って、ご飯を食べて、洗濯をして大体23時頃、そこから約1時間。毎日2時間雨の日も雷の日も何の日も毎日364日間。1月1日の正月は休んだのですけど、毎日ボールを蹴っていたんですよ。仲間にバレずに、ウィンドブレーカーを着てその上から制服を着て、「友達の家に泊まりに行ってくるわ」とかいって、会っちゃったら言い訳が出来るように制服を着て、ボールを潰して空気入れを入れて、学校のカバンを背負って一人で近くの公園に行って公園の街灯、ライトがあるところに行ってサッカーをしていたんです。

小村:毎日コツコツ練習に励んでいたのですね。毎日かかさず練習を続けることができた、そのモチベーションはどこから来たのですか。

藤田:そのモチベーションはただ一つ「夢の力」です。鹿島のユースに決まると自動的に私立の高校に行かされました。ですから親元を離れての高校3年間でした。寮に住んでいましたので寮費もかかります。毎月15万ぐらいのお金を親がサポートしてくれていました。それを高校生ながら分かっていました。自分は誰よりも下手だったので、「親からこんなに支援してもらって、俺が結果を残さなきゃ」と思い、「親に早く恩返ししなきゃ」っていう「早くサッカーで稼いで親に恩返ししたい」っていうそれだけの為でした。モチベーションはそこだけでした。

小村:その姿勢がプロ契約へと繋がっていったのですね。

藤田:やっぱり努力というのは誰かが見ていてくれているようで、そしてその努力が結果的には自信に繋がっていきました。高校2年生の時に2002年の日韓ワールドカップがあったのですが、予想もしていなかった「秋田豊」という鹿島アントラーズのセンターバックの選手がギリギリの最終選考で選ばれたのです。若手中心のチームを構成していましたが、中山雅史選手と秋田選手がベテラン枠で選ばれたのです。そしたら鹿島アントラーズのトップチームのセンターバックがいなくなっちゃったんです。ナビスコカップの大会は並行して続いていたので、その途中だけレンタルで選手を獲得するというのは難しく、たまたま私はセンターバックというポジションをやっていたんです。

小村:そこで抜擢されたのですね。ただ上級生にも同じポジションの選手はいなかったのですか?

藤田:私は高校2年生で、私よりも上手い高校3年生の選手が二人いたのですが、二人とも怪我をしていたのです。それで私しかいないみたいになっちゃったんですよ(笑) 「私が良い」じゃなくて「私しかいない」という状況でした。それでたまたま紅白戦に出てくれと言われ、私はもうルンルンで「明日、俺プロになれるんじゃねえか?」くらいの意識で行ったんですね、もう眠れず。自分が夢見ていた世界だったから、もう寝ずにその日は学校も休ませてもらって練習に行ったのです。そしたら、また中田英寿に変わっちゃって、スイッチが変わっちゃって、「あれっプロってこんなもん?」って思っちゃったんですね。

小村:その変身スイッチはすごいですね(笑) すんなり認められて契約だったのですか。

藤田:それがですね、当時ブラジル代表のエウレル(エウレル・エリアス・デ・カルバーリョ)っていう選手がいたのですが、そのブラジル代表の選手と私、紅白戦中に喧嘩したんですよ(笑) 私はガンガンファール気味に行っていました。次の日試合もあり、危ないから「お前そんなに行くな」と監督に言われたのですが、ガンガンプレーをしていました。そしたらエウレル選手から髪の毛つかまれて、ポルトガル語でバァーと言われて。でも言われたら僕も火が付いちゃって言い返していて、そしたらガチギレしてきて色々あったんですけど、関係者にこっぴどく怒られたのです。そんな中でも私は「こんなもんか、プロって」と思っていました。その矢先に通訳さんがきて、「お前今日親呼べるか?」って言われて。親は仕事だったのですが電話したら「今から行くよ」って言ってくれて父親が仕事着のまま駆けつけてくれました。「どうしたお前なんか悪いことしたか?」言われて、てっきり怒られるのかと思ったら、プロ契約だったんですよ。

小村:ドラマチックなエピソードですね。高校二年生が現役のブラジル代表選手と真正面から当たって負けなかったわけですから、首脳陣も驚かれたことでしょう。

藤田:一日サッカーして、ブラジル代表の選手と喧嘩して「わぁこれなんかやばかったかなぁ」と思ったら契約だったのですね。結果的には先輩たちが怪我をしていて、でも自分の中では1年間まったく休むことなく遊ぶこともなく誰よりも練習したっていう自信があったので、すごくサッカーにおいても「絶対こいつらより練習しているから大丈夫だろう」みたいな根拠のない自信もありました。プロになりたいという夢があり、思いだけは強く、ラッキーなことにプロサッカー選手になれたのです。見たこともないような金額を提示されて。17歳ですよ。「これでいいですか?」と言われて「早くハンコを押して」って親に言ってすぐ押させて成立したのです。そのすぐあとに記者会見が始まって何が何だかわからないのですね。ただ記者会見の言葉は中学2年生から考えていたのですよ(笑) 実は中学2年生からサインも出来上がっていたのです。次の日の茨城新聞の一面に『高校生がプロになった』みたいな記事が掲載されました。そんな紆余曲折があってプロになれたのですよね。

小村: 記者会見お言葉やサインを作っているという未来を暗示させていることはメンタル的にも重要ですね。そして、ついにJリーガーという夢が叶いました。

藤田:自分が契約をした日は高校2年生の10月です。そこから高校とプロサッカー選手の両立でちょうど5月9日のナビスコカップで、生まれて初めてメンバー登録されました。その試合が鹿島スタジアムで2万人ぐらい来ていたのですよ。その試合前にTシャツにサインを書いてスタンドに投げ入れるというパフォーマンスをやるのですが、それを書いて持っていった瞬間にフランスワールドカップの絵と全く一緒だったのです。「あっ俺はあの時はボールボーイだったんだけど、今度は選手として来られたんだ」と思った時に、喜びと嬉しさで涙が止まりませんでした。そこで自分の中では達成してしまった、そこに立ったことだけで喜んでしまった自分がいました。今振り返ればそこがピークだったのかもしれません。

■ブラジルに移籍、住まいはジーコの別荘

小村:2002年のアントラーズは日本代表選手が6人も選ばれるほどの強豪チームで、なかなか試合に出る機会に恵まれませんでした。その後、ザスパ草津に移籍していますが、レンタル移籍だったのですか?

藤田:完全移籍です。たまたま元鹿島アントラーズの奥野僚右選手がザスパ草津に来ていて、その選手が僕を引っ張ってくれました。若手で試合にも出られない選手を探していた時にちょうど推薦してくれたという感じですね。

小村:当時のザスパ草津の選手たちはみんな草津温泉街で働いていて、藤田さんもホテルマンをやっていましたよね。

藤田:ホテルマンをやっていました。風呂掃除をずっとしていました(笑)

小村:ホテルマンをしながら選手をやっていて、他の選手もどこかで住み込みで働きながら地域を盛り上げてJリーグに行こうという、そういう時代のザスパ草津でしたよね。その後、ブラジルに行かれていますが、その経緯は何でしょうか。

藤田:たまたまアントラーズにいた頃に代表監督になる前のジーコがテクニカルアドバイザーという立場でいらっしゃっていて、すごく可愛がってもらっていたのです。アントラーズには昔、ジーコとアルシンドとサントスという有名外国人選手が3人いました。ご存知だと思いますが、そのサントスという選手がザスパに移籍してきたのです。移籍というか1年間、草津のジーコになってくれって言われて契約して入ってきたのですね。で、若手で誰かをブラジルに移籍させようという話が持ち上がって、私もちょうどジーコを知っていましたので、あいつがいいんじゃないかって。一年間力をつけて来いよと言って、ジーコの別荘に住みながら、ジーコのチームに入ったというのが経緯です。

小村:ジーコの別荘に住んでいたのですか!?

藤田:その時の部屋の相棒が鈴木隆行という元代表選手でした。地元が茨城県日立市出身と一緒だったのでたまたまの縁で彼もブラジルに移籍していました。

小村:そこでは試合に出ていたのですか?

藤田:出ていました。面白いエピソードが二つあります。ブラジルは考えられないようなことがあるのですね。よく缶とかビンとかが飛んでくるっていうのは有名な話なのですけど、たまたま私が初めてメンバー登録させてもらって出た試合のことです。後半の残り10分くらいに出させてもらったのですが、私が出たら「なんだよ日本人を出すなよ」ってことで缶とかビンが飛んできました。警官が助けてくれるのですけど、その警官がビンを拾って投げてきたのですよ(笑) 「おい、お前待てよ、お前は警官だろと(笑)」 警官も投げてくるといったそういう場所なのです。

小村:警官も熱いですね(笑) もう一つのエピソードはなんですか。

藤田:コーナーキックのときに、ポジション争いが戦争なのですけど、その時に背中がチクッとしたんです。なんだと思ったら、マークしていた選手から爪楊枝を刺されていたんですよ(笑) 爪楊枝を刺され、「イテッ」と思っていたらもうボールが来ちゃっていて。まあその時は点数を取られなかったので良かったですけども。そのあと審判に片言のポルトガル語で言ったのです。そしたらその刺した選手がピッチに爪楊枝を埋めていまして、もう分からないじゃないですか(笑) そういうことがありましたね。それが「あぁこれがブラジルかぁ」と思いながらそれは楽しんでいました。

小村:サッカー大国ブラジル、恐るべしですね。

藤田:あと一番驚いたのが昔のサッカーパンツって短いじゃないですか、ブラジルの選手とかも短くて。それでスパイクの紐を縛っている選手がいたんですよ。紐を縛りながら横から出してピッチの中でおしっこしているんですよ。観客が4000人くらいいる中ですよ。そして、またその場所は私がスライディングするポジションなんだけどなとか思いながら。そんなこともありましたね。これはすごいなと、日本じゃ出会えないなという経験をしてきました。

小村:すごいエピソードの数々でしたが、1年間のブラジル修行を終え、ザスパ草津に戻りました。

藤田: 21歳の時にザスパ草津に再び戻りました。スイッチが入らなければ「藤田豊」という人間なので、どうしたらスイッチを常に入れられるか。プロの世界は実力では何も変わらないのですよ。たぶんタレントの世界、俳優さんの世界、トレーナーの世界でも、サラリーマンの世界でもそうだと思うのですけど。やっぱり同じフィールドにいる人たちってこの人には絶対勝てないという人はそんなにいないと思うのですね。もうドン比べだと思うのですけど、そこを制する人たちは心が強い。メンタルの勝負だと思った時にメンタルを鍛えなければいけないと思いました。その時、メンタルトレーナーの高畑好秀先生の本をずっと読んでいたのです。読んでいるだけではなく、「直接お会いして話を聞きたい」と手紙を書きました。そこで、小村さんとお会いしたという縁があるのですね。小村さんも私の現役時代の姿を知っていて私の悩みとか、どうやったら昔のようにJ1に戻れるかとか、そういう悩みを相談させていただいた間柄です。

小村:懐かしいね。もう十数年も前だね。当時はメンタルトレーニングも普及しておらず、まだまだ根性論の時代でしたね。私も藤田さんが高畑氏に送った手紙を拝読しましたが、若い選手なのに真っ直ぐで熱い選手だと今でも覚えています。毎週3,4時間かけて群馬から来てもらってトレーニングしたね。私の方が藤田さんと年齢も近かったので色々やったね。何を話したのか忘れてしまったけども(笑)

藤田:私は結構覚えていますけど(笑)

小村:ザスパに戻り1年間プレーをし、22歳の若さでサッカー選手を引退しました。とても早い決断だと感じますが何かきっかけはあったのですか。

藤田:私の契約は上手いとか下手ではなく、年間で360分出ることが来年の契約条件でした。だから4試合以上出ることになります。4試合以上試合に出ることが僕の契約更新の条件だったのですね。選手によっては違うと思うのですけど、ブラジルに行かせてもらったということもあって、最後の試合は結構出させてもらったのですけど、結局3試合しか出られなかったのです。自分がクビと宣告されたときに、自分の実力もこのチームで出られるか出られないかのレベルなら、もう自分はワールドカップに出られるような選手ではないと思いました。サッカーに自分でピリオドを打てたのが今は良かったと思います。当時は悔しかったですけどね。みんな頑張って(サッカーを)続けるのですけど、私はそこで自分でピリオドを打てたっていうのは良かったと思っていますね。

小村:前編はサッカー選手時代の「藤田豊」の人間像に迫りましたが、後編は実に10社以上に会社を設立し、若くしてカリスマ実業家へと転身していく過程、また藤田さんのマインドを紐解いていきたいと思います。
<前編 了>

◆プロフィール◆
fujita04
藤田豊(ふじた・ゆたか)
NPO法人オブリガードサッカークラブ代表。小学校3年生からサッカーを始め、茨城県豊浦中学校サッカーう主将を経て、鹿島アントラーズユースに入団。17歳でプロ2種登録で鹿島アントラーズとプロ契約。2003年ザスパ草津に移籍。2004年ブラジルのプロチーム CFZ do RIO にレンタル移籍。2005年ザスパ草津に復帰し、この年を最後に現役を引退。現在は3歳から12歳までの子供たちのためのサッカースクール「オブリガードサッカースクール」の運営を含め10社の会社を起業している実業家として活躍中。日本サッカー協会C級ライセンス取得。

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